
そんな中、よく思い出すのが、約20年前、イギリス、オックスフォードのとある語学学校の女子寮に滞在してた頃の日曜日の朝の時間。学校は休みなので、各自思い思いの時間に起きて来てくるのですが、たいていドイツ人とドイツ系スイス人は早起き。その次はイタリア人、その後がスペインとフランス人だったかな?たぶん、10人以上いたはずですが、キッチンをシェアしてても混雑が起きることはなく、だいたい同じ時間帯は同じメンバーで珈琲をすすりながらおしゃべりしてました。
で、ほとんどの人がキッチンに置いてあったインスタント珈琲を飲む中、イタリア人の女性だけは、必ずエスプレッソメーカーを使ってました。当時のヨーロッパは不景気(recession)で、女子寮の学生たちもみんななるべく自炊して倹約し、英語を学んでいたわけですが、彼女にとってはこの朝の珈琲はゆずれないもの、人権に等しかったのかも。と、保留コーヒーのことを知った今は思います。
そしてこのイタリア人女性は、ほんと、会話上手で、日曜日の朝にキッチンで彼女の話をきいて、涙が出るほど笑ったのを覚えてます。彼女はボキャブラリーが豊富なわけでも、英語が上手なわけではなく、学校のクラスも、初級に近いレベルに分類されてましたけど、彼女が話だすと何かパーッと話の景色がみえて、それをその場のみんなが共有して大笑い。
イタリア人は手で話すってきいたことありますけど、たしかに彼女は手を使い、というかもう、身体全体で話してました。そしてさらに声が明るくて、と、あの日曜の朝の時間はわたしにとって、かけがえのない思い出になってます。
そして、あの女子寮のことを思い出すと、世界の人々とコミュニケーションするのに必要なのは語学力だけじゃないんだなあ、としみじみ思います。だって、あそこにいた様々な国の人たちの英語は英語としては不完全だったわけで。それでも一緒に生活できてたし、たくさん話をしたし、仲良くなっていい時間を過ごせたし。
当時のわたしは「英語はイギリス人から学ばないと!」なんて固定観念にしばられてましたけど、世界の共通語として英語を選ぶような場合はむしろ、イタリア人の陽気さや手の動き、スペイン人の歌、ブラジル人の踊り、ドイツ人やスイス人の几帳面さ、アフリカ人のおおらかさ、などなど、多様性とセットになった環境で英語を学べたのがなんとも貴重な経験でした。
ちなみに日本人であるわたしはというと、あのキッチンではもっぱら聞き役でした。でもそういえば、親子どんぶりを作って食べてたらみんながよってきて、いい香りだね、美味しいね、って食べてたような記憶が。日本人はというか少なくともわたしの場合、会話そのものよりも、何か作っちゃってコミュニュケーションするタイプなのかもしれません。
関連記事
けれどもさんの思い出 a memoir of M. Keredomo