
織田裕二演じる主人公、新海元一は、自分の研究と過去の栄光にしがみつくあまり、現実が見えず、奥さんに逃げられ、アパートを追い出され、研究室にしていた建物も取り壊しになり、小さな子供と一緒にホームレス生活に。
子供がドーナツを食べたがってもドーナツをお金はなく…。そんな状況で、昔の知り合いとドーナツ屋さんのところで出会ったのですが、自分の窮状を隠したまま、子供にジュースだけ頼みます。知人が多めにドーナツを頼んでいたので、子供はドーナツをおすそ分けしてもらうのでした。
さて。もし保留コーヒーのシステムをこのドーナツ屋さんが導入していて、保留中のコーヒーがある場合、お金がなくても子供がドーナツを注文したり、主人公がコーヒーを頼んで、知人と一緒にテーブルにつくことができます。が、実際、この状況(突然お金も住むところもなくなった)で、保留コーヒー(あるいはドーナツ)を知り合いの前で注文できるかというと、そもそもお金がないことを微妙に隠してるこの主人公の場合、難しそう。こんな状況こそ、保留コーヒーの出番な気もするのですが
一方、そういえば、お金はないけど、こうした飲食店で何か食べる、という場合、日本だと、「食べる分、そこで働く(例えば、皿洗い)」っていうのが定番かも、と、昨日、TBSの「なるようになるさ。」を観てて思いました。
オープン直前のカフェレストランのスタッフとして集まってきたのは、DVから逃げてきた主婦、家出女子、外へ出たくなった引きこもり、の3人。ホームレス直前な状況のこの3人を世話好きな主人公夫婦は住み込みで雇うことになりそう。
脚本は、橋田壽賀子氏のこのドラマ、渡る世間は鬼ばかり、じゃなくて、渡る世間に仏あり、な感じ。日本だとこんなふうに、困った状況の人を助けるなら助けるで、徹底的に関わりたくなるのかも。それが大変だから、困った状況を隠したり、見てみぬふりをするのかなあ、とも思いました。
保留コーヒーについて、The saltのEU Embraces 'Suspended Coffee': Pay It Forward With A Cup Of Joeを読んでいたら、こんな一節がありました。
The prepaid cup of coffee has become a symbol of grass-roots social solidarity at a time of mounting poverty in what, until recently, were affluent Western societies.コーヒーは贅沢じゃなくて、基本的人権というのは、日本では単純にはあてはまらない気がします。コーヒーという飲み物をみんなが飲む訳じゃないというのもありますが、なによりカフェ文化というのでしょうか、家でも職場でもない場の生活に占める位置づけや、カフェという場そのものの社会的成熟度のようなものが、ナポリや他のヨーロッパ諸国と日本ではかなり違っていそう。
But now, back to Naples, where coffee is not a luxury but is considered, more or less, a basic human right.
ちなみに、この記事によると、保留コーヒーはスペインでは、Cafes Pendientes("pending coffees")、フランスでは、cafe en attente("waiting coffee")というそう。言葉が近いので、もっとストレートな訳語にしてもいいのに、ちょっとひねってあるところが面白いです。
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